名港中央のきまぐれブログ

きらら系やら何やらについて、好きなようにだらだら書きます

映画ゆるキャン△第一印象

箇条書きで申し訳ないが、取り敢えずの感想を
【良かったところ】
・キャラクターは一番心配していたところだが、緻密に考えられているのが分かって良かった。大垣とかまんま大垣。一番変わったのはしまりんか、少女らしいロマンチストな面は薄れていたが、それでも喋る松ぼっくりとか脳内食レポとか変わってないところもあるようで。

・キャラデザや作画はTV版から変わらず良い。大人っぽくなった私服もなかなかキマっている。

・音声の演出はこだわりが凄い。歩く音、食べる音などなどに作り込まれているのが分かった。また、OPEDにBGMと、音楽も相変わらず良い。ED良い曲。

・終盤からEDの流れが好き。映画という媒体の都合もあってか、終盤までは静けさが物足りないかなと思っていたが、TV版のような静かな空気感のエンディングが良かった。

・キャンプ場のコンセプト「再生」が、キャラクターたちの友情の「再生」にかかっていてアツいなと思った。久し振りに会ってもすぐに馴染める関係というのは大切で良いもの。

・モブトリオ可愛い

【イマイチなところ】
・テーマがボヤけている気がした。特に今回はキャンプ場を作るという明確なストーリーがある以上、キャンプの楽しさや面白さを中心に据えたいのか、キャラクターの友情や繋がりを中心に据えたいのかはっきりさせた方が良かったのではないか。

・若干ご都合展開な気がした。キャンプ場を使う側から作る側になるのは、視点の違いからなかなか難しいはずだが、しまりんが過去に出てきたキャンプ場を取材する程度だったので、そこをもう少し盛り込んでも良かったと思う。

ゆるキャン△のメンバー間の繋がりは(きらら作品としては)緩やかなものなので、ここまで全員でまとまって行動してるのは若干違和感があるような…

【ネタなど】
・最初の松竹の富士山がキャンプ場から見える富士山になる演出は好きだが、直後にクソデカ芳文社が出てきて笑った。

・大垣がナナちゃん人形が背景の写メを送ってきていたが、名古屋=ナナちゃんというイメージはどこまで通じるのか…?

・しまりんが走ってるな〜小牧JCから多分中央道か、駒ヶ根か?諏訪湖か?と思ってたら綾乃のバイク屋が出てきて面食らった。あれは東名だったのか?

・タクシーで名駅入口を通過するシーン、名古屋高速の一宮線が渋滞してて笑った。あそこは確かによく混む。

・エンドロールに一宮市浜松市が出てきていて謎。浜松ってどこに出てた?

どうして私が美術科に!?河鍋蒼について

 今日は『どうして私が美術科に!?』の登場人物、河鍋蒼の誕生日である。それを祝して、今回は蒼について書いてみることにする。

 蒼は明るく活発なムードメーカー、というのはどうびじゅファンなら誰もが知るところである。一方で、紫苑が暴走した際にはツッコミに回ったり、黄奈子とレースゲームをした際には妙に冷静に指摘を入れたり、更にはキャラクター紹介では『何も考えていないわけではない(?)のでハメを外したことはない』と書かれるなど、お調子者とはまた違った一面があることが分かる。そして、感情的になったり狼狽したりすると口調が変化する(『おかーさん』→『お母さん』など)ことから、お調子者な一面は素の蒼ではないことが分かる。

 それでもお調子者を演じ、ムードメーカーに徹するのは何故なのか。それは、他人のためになりたい、或いは他人を喜ばせたいからだろう。

 喜んでもらうことが一番なので、羽目ははずさないし、時にはツッコミに回る。さらに美術をしているのも美術科に入ったのも『紫苑のため』である。しかしそれは本当だろうか?完成した絵の具を自慢しに来たのは他人に喜んでもらうためなのか?リア充ツアーは紫苑のためのものなのか?本当は蒼は何を考えているのか。


 本当の蒼の行動原理は、他人に認められたいということではないだろうか。

 (恐らく)一人っ子で、更に母親が多忙で『あたしのことちゃんと見てるの~!?』と思ってきた蒼にとって、自分が認められるということは非常に大切なことなのだろう。蒼は滅多に自分のことについて話さないが、紫苑が京都に帰った際には「京都の友達といた時の方が楽しかったんじゃないか」と考えたり、自分を表現する課題では「あたしって…何?」と発言したりと、意外と自信がないように見えるシーンも多い。そんな彼女にとって、ムードメーカーという立ち位置や美術は自分が認められるための重要な手段であり、他人のためだと考えることによって自信にしてきたのだろう。羽目を外さないのは周囲に認められない事態を防ぐためで、リア充ツアーも紫苑に認めてもらいたい故の行動と考えれば違和感はない。

 しかし紫苑は、蒼に対して劣等感を覚え嫉妬していた。紫苑のためとして美術に取り組んできたはずが、逆に紫苑を一層苦しめる結果となっていたのである。それ以降蒼は自分のために美術に取り組むようになり、紫苑に対しても自分を認めてもらう相手ではなく、良き相談相手として接するようになった。学外展では、今までと違って自分の作品で思い悩む様子も見られ、自分で自分の作品を見つめ直すようになったことが分かる。

 最終回で蒼が、珍しく語気を強めて朱花に放った、「誰かのためって そんなの自分の理想を一方的に押し付けてるのと同じだよ!」という台詞がある。どうびじゅ作中でも屈指の名言として知られているが、これは朱花に対しての台詞でありながら過去の蒼自身に対する台詞でもある。(それに続く「と 紫苑が申しておりました!」という台詞も、蒼を変えるきっかけを作った紫苑に対するものだろう。)つまり、自分を評価し認めることができるのは自分しかいない、ということを、蒼は自らの経験から伝えようとしたのではないだろうか。

ホレンテ島のファンタジーとは

 このところきららMAXではファンタジーがブームのようで、そういった要素を取り入れた作品が増えているように思う。それは今回題材とする『ホレンテ島の魔法使い』も例外ではなく、魔法が使われる島を舞台としており、ファンタジー作品に分類されるだろう。しかし、それだけを理由にこの作品をファンタジー作品として捉えるのは違和感がある。
 
 この作品は魔法という現実に存在しないものをモチーフにしているため、ファンタジー要素が強く見えるが、こういった観光客に非日常を演出するための偶像は、ホレンテ島に限らずありふれた存在だ。どの地域にも独特な職業や産業、文化があるものだが、訪れる観光客にとってそれは非日常を感じることのできるユニークな要素に過ぎない。つまり、魔法は読者や観光客にとってはファンタジーの存在であるが、ホレンテ島に住み生活する人々にとって島の魔法は日常の一部でありファンタジーとは言えないのである。しかし、初めて島を出て東京に降り立ったこっこが「魔法か何かにでもかけられてるような」と思ったように、観光とは非日常であり、ある種のファンタジーである。即ち、この作品は不思議な世界観を描いたファンタジー作品ではなく、観光というファンタジーを描いた作品と言えるのではないだろうか。

 観光はファンタジーだが、その裏にはやはり現実がある。コロナ禍以前には「観光立国」を合言葉に、日本中がインバウンド効果を期待し観光ブームとなっていたのは記憶に新しいが、実際に観光地として成功している例は多くない。そして成功したとしても、ホレンテ島のように問題を抱えていることも多い。観光のために防風林を伐採した潮風通り(台風の影響を受けやすいのはこのことと無関係ではないだろう)のような例はどこにでもあるし、魔法使い団子のように、ただご当地のラッピングがされただけの菓子やストラップが土産物屋に並ぶ光景は現実でもよく見られるものだ。さらに作中では、日常的に用いられてきたものの風化しつつあるこれまでの魔法と、観光客の非日常を演出する要素としての魔法の挟間で揺れる島の様子が描かれている。観光のために形を変える文化というのも、また各地で見られる光景である。隠密行動などとても出来なさそうなカラフルな忍者装束、よさこいやパレードが目立って伝統行事が埋もれている秋祭り、モダンなカフェと化す町屋など…「紛い物の魔法」は、きっとあなたの住む町にもあるだろう。

 多くの観光客にとっては非日常感こそが大切であって、観光に来てまでその文化の現実を見たいと思うことはまずない。ただこういった文化の変容は、文化の破壊として批判されることも少なからずあるし、苦々しく思っている地元住民もいるだろう。しかしこの作品では、それを愛すべきものとして捉えている。いくらおかしくて、いくら残念であっても、それはその地域の人々が時代の流れに合わせて作ったものであって、また一つの文化なのである。

 ホレンテ島には、消滅が予想されているとはいえまだ実用的な魔法が残っているが、現実には既に失われた伝統文化が数多くある。しかしそれらの中には、忘れ去られることなく観光の要素として生き残っているものもまた多く存在する。最終回にあった通り、ホレンテ島の魔法は形を変えながら、ファンタジーとして残っていくだろう。そしてこれは、何もホレンテ島に限ったことではない、あらゆる地域に存在する『ファンタジー』の物語なのである。

きんいろモザイク キャラクターとその関係について

 『劇場版きんいろモザイクThank you!!』が8月20日に公開された。このブログのアイコンを見ればお分かり頂けるだろうが、私にとってきんモザは非常に思い入れのある作品であり、更に今回でフィナーレということもあって、見逃せるはずが無かった。ということで公開初日から10回見に行った訳だが、10回とも楽しんで観ることができ、改めてきんモザの魅力や面白さを感じた。残念ながら既に終映を迎えた劇場も多くなり、私はもう恐らく劇場で観ることは叶わないが、これからもきんいろモザイクという作品が好きであることに変わりはないだろう。
 さて、前置きが長くなってしまったが、今回はそんなきんモザの登場人物の関係と『キャラクター』について書いていきたい。ちなみに今回は珍しくネタバレが殆ど無いが、原作の表現等に一部触れることをご留意頂きたい。

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またぞろ。堤麻里矢について

今回は、敢えて今までブログで触れてこなかった、謎の女こと堤麻里矢について考えていくことにする。
なお、またぞろ。最新17話までのネタバレが含まれること、個人的な推測や予想が多く含まれることにご留意頂きたい。

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はなまるスキップ 1巻

 ほのぼのした日常系というイメージが強いきらら系にあって、明らかにほのぼのしていない作品がある。『はなまるスキップ』である。この作品はキャラクターが曲者揃いで、『きんいろモザイク』の鬼畜ネタを彷彿とさせるキレのあるギャグが飛び交う。おまけにオチは基本的に常識人ほど損する不条理極まりない展開で、絵柄こそ可愛いが内容はかなりカオス。また、きらら作品としては非常に珍しい、本編に時事や政治に関するネタが登場する作品でもある。このようにきらら作品としてはかなりぶっ飛んだ作風であり、公式でもその点を踏まえて「新感覚ギャグ四コマ」という二つ名を与えられている。
 
 このような、凡そきらら系とは思えない作風とあっては、ファンから受け入れられるのは難しいはずである。実際、ゲスト(読み切り)掲載されたは良いものの、人気が出ず連載されずに消えていく作品は数多い。しかし、本作は一定のファンを獲得し、現在も連載が続いている。

 ではなぜ、『はなまるスキップ』はきららファンからの支持を集めることが出来たのか。それは、この作品の根底に「優しさ」を感じたからではないだろうか。

 この作品のどこに優しさがあるんだ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。確かに、いいんちょや橋倉先生、果ては同好会の仲間であっても平然と罵るピクニック同好会のメンバー達は、どこまでも利己的で他者に対する優しさなど微塵も無いように見える。しかしそれは、それぞれの優しさの上に成り立っている関係なのである。このことが一番よく分かるのは12話で、仲間の為に団結して行動し、星見はるに至っては「シェフ子ちゃんそのままではなまるだよ」と仲間を認める発言までしている。また、この作品には喧嘩しそうなシーンこそ山ほどあるが、実際に同好会メンバーが喧嘩するシーンは一切存在しない。このことは、いくら罵倒されようとも挑発されようとも、それを相手の個性と認める優しさがあるということを表しているのではないだろうか。

 この作品は一見、きらら系らしからぬ非情な作品のように見えるが、その実、きらら系の重要な要素である「優しさ」を土台とする、まさに「新感覚」のきらら作品と言えるのではないだろうか。

またぞろ。1巻 その2

 引き続き『またぞろ。』について。前回・前々回は考察中心だったため、今回は感想を中心に書こうと思う。なお、ネタバレ要素を含むため未読の方は注意して頂きたい。

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